花の香りと悟り

  🌸 花の香り ある人が名前も知らない花の香りを嗅ぎました。 その香りはとても深いものでしたが、他の人に伝えることはできません。 言葉で説明してみても、聞く人の頭の中にはまったく的外れなイメージが浮かんでしまいます。 同じように、仏さまが私たちに悟りを伝えようとしても、私たちは常に自分の解釈の枠でしか理解しようとしません。 結局、仏さまは「その花がある場所」を教え、実際に行って自分で香りを嗅いでみるよう勧めます。 人々の中には、すぐにその場所へ行って問題を解決する人もいれば、途中で別の花に気を取られて立ち止まる人もいます。また、地図だけを見て実際には行かない人も少なくありません。 しかし、その香りを実際に嗅いだ人と嗅いでいない人との違いは決定的です。 「その香りは少し生臭くないですか?」と聞かれたとき、香りを知らない人は何も答えられません。 一方、実際に嗅いだ人はすぐに答えます。 「そうでもありますが、少しピリッとした気配もありますね」と。 歴代の高僧が、悟りを得た弟子かどうかを見分ける方法は、実にこのように簡単なものでした。 ところが、現代はあまりにも多くの情報があふれ、悟りについても「模範解答」がすでに知られているほどです。そのため、悟っていない人でも本をいくつも読むうちに、あたかも悟ったかのように錯覚し、さらには他人を裁こうとすることさえあります。 これは実に危険なことに違いありません。 なぜなら、香りは言葉だけでは決して知ることができないのは、あまりにも明らかなことだからです。 悟りとは、鼻で香りを嗅ぐように明確なものです。 しかし、聞きかじった知識で悟りを描き出そうとする危険が、今の私たちの周りには常に存在しています。

「悟り」は特別なものではない

  「悟り」は特別なものではない:それは「物心がつく」過程、その深い意味 私たちはしばしば、「悟り」と聞くと、何か非常に特別で神秘的な体験を思い浮かべがちです。しかし、私は「悟り」が決してとっぴなものではないと考えています。むしろ、それは**「物心がつく」過程**に他ならないと言えるでしょう。 子供が成長して大人になり、社会の一員となる中で、私たちは少しずつ物心がついていきます。幼い頃、自分を中心に駄々をこねたりわがままを言ったりしていた子供が、成長するにつれて他人との関係を意識するようになり、自分の取り分を減らして共存することを学びます。 しかし、これだけでは本当に物心がついてるとは言えません。真に物心がつくというのは、他人、つまり外部に対する**「自己愛」を抱くこと**です。「自分が空腹なら、他人も空腹だろう」と知り、他人が怒ったり悲しんだりしていれば、共に悲しみ、共に憤ることができる心。そうして自然に道徳や廉恥心が備わり、私たちは「大人」になっていくのです。 完全な自己認識へと進む道 それでも、まだ完全に物心がついてるとは言えません。まだ 自分自身に対する完全な自己認識が欠けている からです。普遍的な価値観には従順ですが、人間の本質への理解が不足しているため、価値の両面性が同時に現れる問題の矛盾を完全に消化できず、混乱を経験することもあります。この段階で、私たちは人間と社会について、より深い洞察と見識を求めるようになります。 この過程は決して容易ではありません。これまでの人生でやったことのない 自己省察を始める必要がある からです。人間とはすなわち自分自身であり、社会(自然)と自分は切り離すことができないという真理に気づく過程です。子供の頃、学校で反省文を書くようなレベルの自分を振り返ることとは次元が違います。最初はそうして始まりますが、より深い内面を見つめようとすると、まったく異質な経験として迫ってきて、誰もが非常に混乱するものです。 私たちはただ物事を見て解釈することには慣れていますが、自分自身を見つめることはあまりしていないため、この作業は馴染みがありません。しかし、これは決してできないことではありません。じっくりと自分自身を見つめ、自然に浮かんでくる疑問点を心に留めておけば良いのです。**心とは不思議なもので、いつかその心に留めた疑問点への答え...

縁起は科学である

 酸素と水素が出会い、水という新しいものを生み出す現象を、科学では「創発」と呼ぶ。 これらの分子が集まり、タンパク質や炭水化物を創発し、 ついには生命体を生み出す。 水の性質(本質)は酸素にも水素にも存在しないが、 この二つの元素が1対2の比率で出会うと、ついに水が生まれる。 まさに神秘的であり、奇跡と言っても過言ではない。 この二つが出会わなければ、水という存在はない。 「これがあるからあれがあり、これがなければあれもない」という 仏陀の縁起法の命題こそ、科学そのものである。 水だけではなく、この世のすべての物質と、それらによって形づくられる事物、 さらにそこから生じるすべての現象までもが創発され、 森羅万象として現れている。 人間の体を形づくるもの、そしてその体が変化していく過程、 その体によって感じるあらゆる感覚や思考までも、 創発によるものに他ならない。 このように、無限に現れたり消えたりするこの作用こそが、唯一の「生命」である。 私たちの体の中でも作用し、やがて死んで土に還ったとしても、 この作用は一瞬たりとも止まることはない。 生きた体の中でのみ生命として作用すると錯覚し、 そのために「生と死」に囚われるのだ。 創発性は有機物と無機物を区別しない。 石のかけらも、枯れた葉っぱも、 いまだ大いなる創発の流れの中にある。 この道理を心の奥底から真に体得することができれば、 誰もが「無情説法」を聞き取ることができるだろう。